大西忠治先生『教師にとって実践とは何か』を読んだ。
「この授業に、この学級や学校に子どもが生き生きといたかどうか?それを議論する声は、きわめてとぼしく、聞きがたいのである。」
この問題提起はとても興味深い。
なぜなら、アクティブ・ラーニングが叫ばれる前は、議論する声自体が少なかったのかと思うと子どもの存在はほぼなかったのだろうと想像されるからだ。
「テストがいてはじめて子どもが、子どもの意欲がかろうじてつなぎとめられていたのだといってもいいかもしれない。」
今だにテストがいてつなぎとめられている。
テストの点数で一喜一憂する雰囲気がある。この固執した考えを剥がすにはもっとたくさんの人剥がしにかかるしかない。
では、子どもがいるとはどういうことだ?
その答えが
「教師の指導や、教師との心のつながりでのぶっつかりとは独立的に、子どもの組織が(つまり、自分の指導機関を持ち、自分の統率力を持ち、家に対しても、むろん外に対しても、きちんとけじめのある集団行動を即座に取り得るような、そういう物質的な存在としてのそれが)あるかどうか?によって判断することにしているのである。」
非常に面白い。
独立的と表現している。「自治的集団」と称していることが現代にも通ずるのではないだろうか。「『学習集団』が成立しているかどうかということ」この一文に込められた表現から、教師は個ではなく集団として観て、集団を存在させる事が子供が存在すると言うことになると私は考えた。
また続きを読んでいきたい。